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2012年1月

先生とタンホイザー

 学生時代に所属した男声合唱団の、現役による定期演奏会を聴きに行った。
40年ぶりだった。
52年の長きに渡りご指導頂いた先生が、この二月に卒寿を迎えられ、それを機に指揮者を退かれる。ワグナー作曲タンホイザー「大行進曲」を、先生がアンコールで指揮され、現役に混じってOBも歌えるという。
 参加しようか、しばらく逡巡した。本番は暗譜が必須。だが残念なことに、この大曲を歌った経験がない。
学生時代共に歌った友人の一人が、自信のない私を励ますように誘ってくれた。
「出ないと後で後悔するだろうなあ」
意を決し、現役OB200名を超える仲間に加わることにした。
自宅で譜面をみながら、歌ってみる。ドイツ語の歌詞、セカンドテノールの音程。高いハードルなのか、手ごたえがつかめない。だが数回の練習に参加、自ら歌い言葉の意味と発音を念入りに伝えようとされる先生の姿に接し、少しづつ心臓の鼓動が高まるのを覚える。
 そして本番。歌ううちに全身が痺れてきた。終えた後に襲ってきた、まるで富士にも登ったような高揚感。それは筆舌には尽し難い。
声と声とが響きあい、溶け合う相乗効果。学生時代に味わった歌う喜び。それらが身体中にしみついていて、覚えてくれていたのだろう。
 演奏会終了後、打ち上げ会での先生の言葉。 
「<歳をとるたびに知らないことも増えてくる>という文章を読んでハッとした。知らないことを知るよろこび。探究心」
音楽への弛まない情熱、いささかの衰えもみせない探究心。
先生に学んだことの尊さを改めてかみしめながら、先生のお蔭で、お互い声を掛け合いつどいあう友との交わりまでが深まった気がした。

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木登りと百足

 元旦の新聞、夥しい程の特集記事の中で、ドナルド・キーンの「叙情詩となって蘇る」が、眼に飛び込んできた。深く共鳴を覚え、さっそくブログの題材にさせてもらう。
先ずは次の文章紹介から。
「記憶とは不思議なものだ。歳を取るにしたがい、先ほどの出来事、昨日の出来事が次々と頭から消えて行く。なのに思いがけないひと時に、過ぎた日の断面が突然、蘇る」。
まさに今の自分にぴったし、思わず読んで安心する。
毎日2種類の薬を飲む。「今日は飲んだかなあ」と、ほぼ毎日のように我が身に問いかける。すっかり忘却の彼方である。
時々、悩みを家人に打ち明ける。「私も似たようなものよ」と、取り合ってはくれない。
「お互い今を嘆きあうのはよそう」と、彼女らしい生活の智恵かもしれない。
 さて現在、ひとつの書き物を試みている。幼少年期の記憶を辿るものだ。
特別の目的があってでもない。ただ何となく書きたくなっただけのことである。
その中にこんな箇所がある。
― 庭に一本、大きな松の木があった。木登りには絶好の枝振りで、毎日のように登り悦に入った。たまにシャレた服装の綺麗な女性が真下に通りかかる。するとドキドキしながら見つめ続けたものだった。あるとき枝上に百足を見つけ、驚いて父に話すると、父は「父さんも子供の頃、百足に足を刺されて、足が腫れあがったよ」と言った。しっかり注意しろよとのことだったのだろう。木登りはやめとけ、とは叱られなかった。―
多分、8歳頃のことである。父も生きていれば110歳になる。
叙情詩ほどではなくとも、あのときの父の話しぶりと表情は、今でも鮮明に蘇ってくる。

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