オーラルヒストリー
最近、オーラルヒストリーに興味を覚え、関連する本を何冊か読んだ。
「聞き取り」「聞き書き」を意味し、現代史をリアルに分析する手法の一つである。
手始めは、御厨貴著『後藤田正晴と矢口洪一の統率力』。実に面白かった。
語り手の本音を、聞き手が引き出すにこの上なく巧だ。お蔭であっという間に読んだ。
そう読ませるのがこの手法の持ち味らしい。とりわけ矢口の話が魅力に溢れ、息遣いが聞こえてくる気がした。
さて矢口洪一。数代前の最高裁長官。ミスター司法行政として、つとに知られる。
立法・司法・行政。立法は国会、行政は内閣と役所、これらは情報公開が進み、連日報道されている。一方で司法、殊に裁判の世界は、偶におきる裁判官の不祥事が報道されるくらいで、情報公開には程遠い。最近でこそ裁判員制度のお蔭か、この世界も多少は私たち庶民にも近づいてはきているが。
で興味深かった事例を一つ紹介する。最高裁判所の仕組み、特に長官以下十五名で構成される大法廷の実態、そして何よりも十五名の裁判官の数のもつ意味である。
実はこれが問題だと、大胆にも矢口は語る。
「十五人の大法廷でも、よく発言するのは、大体数人です。行政官とか外交官とか学者の方とかは、ご自分の領域はいいんですが、それ以外の領域では経験もありませんし、躊躇される。どういうふうに議論に入り込んでいっていいか、案外気を遣われます。それは、委員会なんかでも同じでしょう。大体、しゃべる人は決まっていて、大部分の人は、それにチョコチョコと口を挟むか、賛成か反対かを言うだけのことで、特に意見を述べない。
幾つかの意見が出てしまえば、そのあとは一人一人が滔々と意見を述べることは、本当に稀なことです。その意味では、十五人は多すぎるかも知れません」
これには背景の解説が必要だろう。先ず十五人の構成。大半は職業司法官、即ち裁判官、弁護士、検事出身だが、その他、学者、役人、外交官等の出身が数人いる。
そうか、裁判にはまるで素人同然の人たちが加わっているのか、と改めて認識する。
選ばれた彼らは見識高いエリート中のエリートである。ならばこそ不見識でピントのずれた発言は許されない。そこで自らを縛り、心して発言しなくなる。これを「十五人の恐怖」と言うらしい。
そこで矢口は言う。「十五人では多すぎる、七人かな(中略)。本当に全員で議論するなら五人で十分でしょうが、まあ七人か九人ですね」。
私事だが矢口が最高裁長官時代、直接、面と向って話したことがあった。
佇まいは実に風格堂々。が、語り口はユーモア豊かで親近感を感じさせた。でもどこか大局観が漂う。広く深く人間を観察する修養を積んだが故のことだろう。
必ず言葉の合間に、当方の名前を連呼された。「我々の仕事、つまり裁判ですが、一言で言うと、非生産的な仕事です」と語られたのが、強く印象に残る。
因みに最近、このオーラルヒストリーを試みている。
書くべき主題にとって、いかに的確な「聞き取り」相手を選べるか、この手法の価値がそこにかかっている気がする。
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コメント
会議のポイントは参加者が発言することだと思います。参加者が活発に発言し意見交換をすれば互いに刺激され良い案が出てくると思います。発言すれば居眠りもしない。「発言しない人間は会議に出るな。一言ぐらい言うことはないのか?」と発言を促しても無言の参加者が大半だと思います。
従い参加者の多い会議は目的を情報の共有化に絞り、資料事前配布等で短時間で済ます。
重要な議題は参加者を責任者と専門家に絞り全員が発言して結論を出すようにできないか・・。これがうまくいけば組織は活性化すると思います。会議の効率化と活性化が組織のマネジメントのポイントだと思います。
投稿: 西林 俊治 | 2011年10月10日 (月) 13時03分
重要な会議ではやはり遠慮が支配してしまうのですね。最近仕事以外に、いろんな人の集まる会に出る機会があります。こんな会では結構気楽に発言はあるのですが、話が四方八方に飛んでしまったり、私語が多かったり、遠慮が無いというのは気楽でいいものですね。どちらかというと喋りたがり屋の私はじっと我慢する訓練をしています。
昔、研修会で講師から、会議活性化のポイントは愚問愚答からスタートすべし、と聞いた記憶もあります。本筋から離れたコメントでゴメンナサイ。
投稿: Y.S | 2011年10月16日 (日) 18時07分