« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月

オーラルヒストリー

 最近、オーラルヒストリーに興味を覚え、関連する本を何冊か読んだ。
「聞き取り」「聞き書き」を意味し、現代史をリアルに分析する手法の一つである。
手始めは、御厨貴著『後藤田正晴と矢口洪一の統率力』。実に面白かった。
語り手の本音を、聞き手が引き出すにこの上なく巧だ。お蔭であっという間に読んだ。
そう読ませるのがこの手法の持ち味らしい。とりわけ矢口の話が魅力に溢れ、息遣いが聞こえてくる気がした。
 さて矢口洪一。数代前の最高裁長官。ミスター司法行政として、つとに知られる。
立法・司法・行政。立法は国会、行政は内閣と役所、これらは情報公開が進み、連日報道されている。一方で司法、殊に裁判の世界は、偶におきる裁判官の不祥事が報道されるくらいで、情報公開には程遠い。最近でこそ裁判員制度のお蔭か、この世界も多少は私たち庶民にも近づいてはきているが。
 で興味深かった事例を一つ紹介する。最高裁判所の仕組み、特に長官以下十五名で構成される大法廷の実態、そして何よりも十五名の裁判官の数のもつ意味である。
実はこれが問題だと、大胆にも矢口は語る。
「十五人の大法廷でも、よく発言するのは、大体数人です。行政官とか外交官とか学者の方とかは、ご自分の領域はいいんですが、それ以外の領域では経験もありませんし、躊躇される。どういうふうに議論に入り込んでいっていいか、案外気を遣われます。それは、委員会なんかでも同じでしょう。大体、しゃべる人は決まっていて、大部分の人は、それにチョコチョコと口を挟むか、賛成か反対かを言うだけのことで、特に意見を述べない。
幾つかの意見が出てしまえば、そのあとは一人一人が滔々と意見を述べることは、本当に稀なことです。その意味では、十五人は多すぎるかも知れません」
これには背景の解説が必要だろう。先ず十五人の構成。大半は職業司法官、即ち裁判官、弁護士、検事出身だが、その他、学者、役人、外交官等の出身が数人いる。
そうか、裁判にはまるで素人同然の人たちが加わっているのか、と改めて認識する。
選ばれた彼らは見識高いエリート中のエリートである。ならばこそ不見識でピントのずれた発言は許されない。そこで自らを縛り、心して発言しなくなる。これを「十五人の恐怖」と言うらしい。
そこで矢口は言う。「十五人では多すぎる、七人かな(中略)。本当に全員で議論するなら五人で十分でしょうが、まあ七人か九人ですね」。
 私事だが矢口が最高裁長官時代、直接、面と向って話したことがあった。
佇まいは実に風格堂々。が、語り口はユーモア豊かで親近感を感じさせた。でもどこか大局観が漂う。広く深く人間を観察する修養を積んだが故のことだろう。
必ず言葉の合間に、当方の名前を連呼された。「我々の仕事、つまり裁判ですが、一言で言うと、非生産的な仕事です」と語られたのが、強く印象に残る。
 因みに最近、このオーラルヒストリーを試みている。
書くべき主題にとって、いかに的確な「聞き取り」相手を選べるか、この手法の価値がそこにかかっている気がする。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »