こんな読書法もあります
ある本を、毎日欠かさず読んでいる。数年前ざっと一読した。確かな記憶はないが、一ヶ月はかけてない。
昨年九月、加藤周一を追悼する記念講演会を聴いた。大江健三郎が、加藤の著作であるその本の内容と読み方について講演した。
「敬愛する作家や思想家が亡くなられると、私はその方の作品を集中して読む。加藤さんの作品で、中でもこの本は、毎日読んでいる。全部で十三章、一章に一ヶ月、読み通すに一年強。そのくらいかけて、学ぶに価する」。
メモを片手の含蓄ある講演に触発された私は、すぐ実行することにした。
本は『日本文学史序説』。ちくま学芸文庫、上下巻千ページを超える大著である。
幅広く奥深い。大江に習い、一章に一ヶ月かける。
広いというのは、文学の範囲である。小説・詩歌はもとより、思想・宗教・歴史・農民一揆の檄文に至るまで収め、時には造形美術に触れる。文学を軸とした日本文化論と言ってもいいだろう。
最初は、著者と作品毎に繰り返し読む。だが頭を素通りした気がして、段落ごと区切って読むのに切り替えた。でもまだ頭に留まった気がしない。
試行錯誤するうち、ここはという箇所を書き写してみる。さながら受験勉強の昔を思い出す心地である。拙い字面を眼で追ううちに、パソコンに向かい、レジュメに要約することにした。珍しくそれが根気よく続いている。
書きながら読み込み、理解を深めようとする。ある本好きの友人を念頭に、レジュメを読んでもらおうと勝手に思いながら、ひたすら要約する。
対象となる作品、著者の思いと歴史的背景、外国文献との比較対照。広く深い知識に裏打ちされた、切々と語る叙述の力が、日毎に読むひたむきさを培ってくれる。
明晰な文体は、要約するのに苦心する。削る箇所がない。気がつけば、まるで丸写しである。だがその作業が、毎日続ける誘引にもなっている。
加えて著者入魂の文章の力に、眠っていた好奇心までがくすぐられる。
鎌倉仏教の章を読んだ後、『親鸞を読む』(山折哲雄著)を手に取った。読まずに積んでおいた本だった。更に前から興味のあった立松和平の『道元禅師』を、思い切って通読した。世阿弥の箇所を読み始めた頃は、家人の蔵書『秘花』(瀬戸内寂聴著)を併読した。
はや八ヶ月目、現在、『仮名手本忠臣蔵』に差し掛かっている。以前耽読した丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』を思い浮かべる。
丸谷は、御霊信仰が忠臣蔵の核心だとする説。「死霊が怒って禍をもたらす」、菅原道真を祭る天神信仰に代表される、古代からの土俗信仰である。主君に対する忠義だけで、江戸時代より今日まで、歌舞伎では『仮名手本忠臣蔵』が頻繁に上演され、大衆に支持されるわけがない。日本人の多くに、敵討ちの背景に御霊信仰が深く根づいているからこそだというのである。
加藤も、忠臣蔵の人気は、「「忠義」ではない」とするのは同じ。だが「「忠義」の話は、他にも限りなくあった」とする加藤は、御霊信仰説はとらない。それは何故か。
加藤説は、忠臣蔵の魅力は、「四十七士の団結した行動」だとする。平時には「お軽と勘平の恋」があり、「大石の遊蕩」があった。しかし危機にはすべてを超えて団結する。「問題は、その所属観のすばらしさ・魅力であって」「四十七士の人気は、日本人が目的を問わずに団結し得る能力を備えているかぎり、無限につづくはずであろう」と。
歌舞伎ファンなら、ご存知だろう。歌舞伎は芝居の一幕に相当する各段が、それ自体全体から独立している場合が多く、一貫する「すじ」が甚だ弱い。従って部分を全体から切り離しても、興味は殆んど減じない。「お軽勘平」の恋物語、「天河屋の義平は男でござる」の義理堅い堺町人の物語、それらは御霊信仰とは関係がない。
そう考えると、加藤説に近づく。「忠臣蔵」に一家言お持ちの方なら、どちらの説に共感されるか、是非、ご意見をお聞きしたいところだ。
さて、一年強かけ一冊の本を読む。学生時代のマルクス『資本論』以来であろうか。
時おり振り返りつつ、そろそろ読み終えた後のことが頭にチラつく。
レジュメを読み返し、あの本を読んでみるか、この本の再読に挑戦するか、選択に思いを廻らせることだろう、と想像しながら、レジュメの推敲に精を出す。
かくして本のお蔭で一日はすぐに経ち、満ち足りた余韻を残しながら、あっという間に日々は過ぎてゆく。
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