懐かしの谷崎潤一郎-『少将滋幹の母』と『春琴抄』

 学生時代、詩を書いた。所属するクラブの会報に、時々掲載してもらった。
気取ってペンネームを使った。名付けて宗像(むなかた)純一郎。宗像は田舎の家近隣にあった小さな神社の名前、純一郎は谷崎潤一郎の拝借で、僭越なので字は変えた。
詩は感傷性を衒うもので、今振り返ると自己陶酔に過ぎ赤面するばかりだが、当時は俗流ロマンテイシズムと銘打って、自分なりの思いを表現したつもりだった。
俗流としたのは照れ隠しである。耽美主義云々と谷崎にあやかるには気が引けて、それ程の自信もなかったが、友人数人が読み評価してくれた。
 さて谷崎だが、格別に耽読していたわけではない。ただ『少将滋幹の母』は、高校の教科書の掲載もあり読んでいた。文豪の名前を借りたのは、視角にうったえる美しい日本語の印象が、心の底に深く残ってたがゆえのことだ。
たまたま学生時代を省みるきっかけがあり、ふとこのことを思い出し、懐かしくなって『少将滋幹の母』を再読、引き続き読んだのは名作の誉れ高き『春琴抄』である。

 さて『春琴抄』、主人公は、三味線や琴の天分にすぐれ、類まれな美貌の持ち主だが不幸にして盲目の春琴と、彼女を慕い献身的に尽くす奉公人佐助の二人。やがて佐助は、何者かに熱湯を浴びせられ醜い火傷を負った春琴の顔を再び見られぬよう、両眼を針でつき自らも盲目になるという、「マゾヒテイックな女性拝跪(はいき)」の物語である。
その巧みな小説技法は、読者に巻を措いて感嘆せしめることこの上なく、真底から本当にあった話だと信じ込ませてしまう。今現在も、春琴と佐助の墓に参ろうと、作品に登場するそれらしき寺を訪ね歩く人が絶えないという。
理由はいったい何故だろうか。また巧みな小説技法とは。
 作品は作者谷崎当人と思われる人物が、小冊子『鵙屋春琴伝』を手に入れたという設定で進む。この『伝』は、弟子で夫でもある「春琴視ること神のごとくであった」という佐助が書かせたとされ、漢文調の文語の端麗な文体は、さながら客観的な筆調を帯びている。文中では、「春琴幼にして頴悟、加ふるに容姿端麗にして高雅なること譬えんに物なし」という具合に、春琴の人生を神話化する如く語る。
『伝』の叙述に基づき、語り手が晩年の二人に親しく仕えた鴫沢てる女の話などを参考に、適宜考証を加えて物語りは展開する。
多分に美化されたきらいのある『伝』を批判的に捉え、『伝』の真実を疑うことが物語の核となり、言文一致体で表現する語り手の言葉が、事実を語るがごとく臨場感を持って伝わってくる。『伝』を踏み台として、物語が活き活きと膨らんでもくる。
 そこでいくつかの例文を紹介する。
先ず『伝』が伝える、佐助が春琴に三味線を習う箇所である。
― 時に春琴は佐助が志を憐(あわれ)み、汝の熱心に賞(め)でて以後は妾(わらは)が教えて取らせん。汝余暇あらば常に妾を師と頼みて稽古を励むべし。〈中略〉佐助は天にも昇る心地して丁稚の業務に服する傍、日々一定の時間を限り指南を仰ぐこととはなりぬ。―
これに対して語り手の描写する風景が付加される。
 幼い女師匠が、「あかん、あかん、弾けるまで夜通しかかったかてやりや」
「阿保、何で覚えられへんねん」と罵りながら撥(ばち)をもって頭を殴り弟子がしくしく泣き出すことも珍しくなかった。― 

かように生々しい姿で春琴の傲慢で野放図につのる様子が、関西弁のセリフを駆使してあぶりだされてくる。
 更に春琴が醜い火傷を負い、佐助が自らの目をつぶし盲目となるクライマックスの場面である。再び『伝』の描写。
― 〈春琴の〉負傷は軽微にして天稟の美貌を殆ど損ずることなかりき。〈中略〉それより数十日を経て佐助も亦白内障を煩い、忽ち両眼暗黒となりぬ。佐助は(中略)春琴の前に至り、狂喜して叫んで曰く、師よ、佐助は失明致したり。最早や一生お師匠様のお顔の瑕を見ずに済む也、まことによき時に盲目となり候うもの哉、是れ必ず天意にしてはべらんと。春琴これを聴きて憮然たることや久しかな。―
この淡々と描かれる世界が、作者をして佐助が偶然白内障になる不自然を疑わせ、春琴の軽微な火傷にも疑問を持たせ、後年春琴の死後、佐助本人に真相を語らせるに至るという、実にドラマチックな展開へと変貌する。
迫真の描写は、事件当夜実際は見るも無残な顔となった春琴と、それを深く悲しむ佐助との水際立ったやりとりから始まる。
 余人は兎も角お前にだけは此の顔を見られねばならぬと勝気な春琴も意地が挫けたかついぞないことに涙を流し、たまりかねた佐助も暗然として言うべき言葉なく共に嗚咽するばかりであったが、(佐助は)必ずお顔を見ぬように致します。ご安心なさりませと何事か期する所があるように言った。―
そして数日後、佐助は眼中へ針を突き刺す。盲目となった佐助は手探りで春琴の元へ行く。
― お師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額ずいて言った。佐助、それは本当か、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思していた。佐助は此の世に生まれてから後にも先にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかった。―
佐助それは本当かとの春琴の一言が、佐助には喜びに奮えるかのごとく聞こえ、心と心が初めてひしと抱き合い一つになっていく。両眼を失った佐助の殉教者の法悦に似た心境を、かように巧みに作者は表現するのである。
読者はここで改めて作者のうまさに気付く。語り手の文章が絶妙に『伝』への疑問をぶつけることで、『伝』そのものが生きてくる。さまでして『伝』の中で春琴を理想の女に創りあげた、佐助の痛ましくも強靭な精神が読み取れるがゆえである。

 読みながらしみじみ思う。
『春琴抄』の本当らしさ、それはテクストを重層的に構成し、その言葉と言葉のぶつかりあいによってもたらされるものに違いない、と。
『伝』及び語り手の言葉夫々の作者入魂の文体は、外国語になど翻訳できない、日本語でしか表現し得ない緊張感を生み、それでいながら一種の風雅を漂わせている。
是非共、高校国語の教科書でテクストとして取り上げ、生徒たちが舌頭を転がせ日本語を噛み締めて読んで、その深い味わいを身体に滲み込ませるべきではないか、そう愚考しつつ幾度となく『春琴抄』を繙いて、声にだして読む。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

気になる物忘れ

  「あのー、何ていうコースだったけなあ、バンコック近郊の名門コース? 」
「Aコースですか、それともBコースかな」
「違う違う、えーと、えーーと」
ゴルフ場の名前がなかなか出てこない。
プレーは進行、やがて谷越ロングコースのテイーグランドに立った。
「そうそう思い出したよ。ナワタニ・ゴルフクラブだ」
気分はすっきりと落ち着き、渾身のショットを放つ。
タイ出張から帰ったばかりの友人との、ゴルフプレー中でのひとコマである。
かように還暦も数年が過ぎ、物忘れが日毎に気になり始めた。突然、親しい人の名前が出てこない、美味しい寿司屋の店の名前が思い出せない等々。
物忘れといえば、雨上がりの傘や郵便物の投函が多いとされている。でもこれらは若い時分からありがちで、傘は電車内で多い遺失物だし、郵便物は通勤途上の投函など忘れて当然の気がする。夫々年齢と共に増えるのとは違って、さほど気にはならない物忘れだ。
問題は忘れる中味である。
 
 「おおっ! 久しぶりだなあ。何ヶ月ぶりかな」
友人の夫妻と久方ぶりに会った気がした。
「何言ってんだ! 先月ゴルフを一緒にプレーしたばかりじゃないか」
言われて気がついたが、すぐに言い訳交じりに反応する。
「いやあー、じっくり一緒に食事をするのはだよ」
先週の出来事を忘れる。至近時ほど忘れる傾向が強まる。皮肉にも昔のことはよく覚えている。
 思い出せなくとも、「まあいいや」とあっさりとは割り切れない。
気になり始めると、こだわる気持からは解放されない。思い出そうとして、しぶとく粘る。
冒頭のケースはちょうどよいきっかけのおかげで、無事何とか思い出すことが出来た。
が、こういうケースは珍しい。
人の名前などを忘れる。ああでもない、こうでもないと、あいうえお順に自問自答するが、なかなか出てこない。
数時間後突然ひらめき、幸い思い出す。
「ああー、よかった。すっきりした」
と、そこでひと安心。まだまだ大丈夫だと独りよがりに納得する。
 「俺も認知症の初期かなあ」
友人達との会話で、最近しばしば半ば冗談交じりに出がちなセリフだが、嘆くよりも頭中をぐるぐる巡らせながら、あのすっきりした小さな快感を求めて、意地でも思い出さんと粘り続けようとする。

 と、ここまで書いてお仕舞いのところだったが、
「ちょっと待てよ」
しばし立ち止まって考えてみる。
急に意識して必死に思い出そうとすると、返って親しい人の名前すら出てこない。ある人に会って自然に頭に浮かぶような受動的な反応に比べ、能動的に記憶を呼び覚まそうとすればするほど、記憶は遠ざかってしまう。急に思い出すのは、たいていは無意識のうちだ。考える程に、益々そんな気がしてくる。
物忘れをあまり嘆かず、例え忘れても淡々として力まずにこだわらない。
どうもその方が無理がなく自然なのかも知れない。どうですか、同世代の皆さん!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「君イー、君はいったい何ができるんだねー」

 高校も卒業間近、ある年配の世界史担任の先生が言った。
「もうすぐ君らも卒業だ。この機会に、ひとつだけ言っておきたい」
「へえー、いったいなんだろう」
シーンと生徒たちは耳を傾ける。
が、日頃から話し好きの先生のこともあり、淡々として聴く。
「君は何ができるんだと問われたら、どう答えるかねー」
しばらくは誰からも反応がない。すると幾分か強い口調で、
「何かはっきりと答えられるものを持っていることだよ。何ができるかだよ」
と繰り返された。ちなみに元新聞記者の先生は、入社面接で次のように答えたという。
「バイオリンを少々やります」
「えっ? 」 突然、教室がざわめいた。
さえぎるように声を高めた先生は、結構勇気が必要だったんだと付け加えられた。
軍国主義華やかなりし戦前で、成年男子がバイオリンをやるなど、何と軟弱なのだと批判されそうな、そんな時代だったのだとも。
 当初、先生が言わんとされたのは趣味を持てとのことのように思われた。
だが先生の表情を見ながら言葉の意味を考えてみると、どうもそれだけではないようだ。
真意はもっと深いところにあったのだ。
何でもいい、他の人と少しでも違うこと、得意だと言い切れるものを、咄嗟に答えられるよう日頃から培っておけ、ということだった。
バイオリンの意外性もあって先生の話は印象に残り、私はしばらく自分に当てはめて考えてみることになる。
相撲は強かった。周りでは負け知らずで自信もあった。でも全身丸裸でまわしを締めるのが苦手だった。歌が好きで、並の人よりは上手だと思っていた。自分には歌があるぞと思った。かくして先生の言葉は、私の心に留まり続ける。
 その後、歌に対する自信は大学生になり男声合唱のクラブに入ると、たちどころに打ち砕かれてしまった。そこにはプロを目指せるほど抜群に上手いのが、何人かはいたのだ。
 あれから四十年あまり。先生の助言を生かしきれたかなあと、改めて自問してみる。
好きなことをトコトンのめり込んでもやる。やりたくなければやらない。何でも横並びの世の中で、叩かれる杭となっても、おのれを持して譲らない。そのためには他人に呆れられようと、自信を失いかけようが初志貫徹、孤独に耐えられる勇気がいる。
しかるに自分には得意を誇って物にする、その貫徹する勇気が足りたのかなあと。
 こうして現在ブログを書きながら、時おり振返る。ぜひとも書きたいと誇れるものがあるだろうか。
「この部門は俺はちと詳しいぞー」「これだけは負けないぞ」等々と断言できるものが。
例えば、音楽? まあまあそこそこか。絵画? まだまだ不十分だなあ。 文学? 去年の大学聴講生で、難しい授業に手こずったばかりだ。ゴルフ? 100切るのがやっと。 
詰まるところはすべてが中途半端ではないか... ああー、と溜息がでかかる。
だが待てよ...何でもやりたがる。何でも知りたがる。何でも勉強? しようとの熱意だけは残っている。
いまだ途切れないこの好奇心の強さ! それこそ人並み以上ではないか。
と、ちょっぴり誇りたいなあーとひとりごち、自ら納得する境地にはまり込んでいく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

世田谷線に乗り沿線を歩く

 地下鉄はあまり好きではない。電車に乗るなら、地上を走る方を選ぶ。沿線の景色が観察できるのが楽しい。
ということで、四十年ぶりに東急世田谷線に乗った。永井荷風の『つゆのあとさき』を読み、沿線に程近い松蔭神社や豪徳寺界隈の描写に心動かされたゆえである。
「じゃあ、松蔭神社でも散策してみるか」
読み終えて、さっそく出かけることにした。
始発の三軒茶屋駅から乗る。全線140円均一なり。緑色の小ぶりな車両は僅か二両、路面電車並み目線の高さで走る。ときおり洗濯物が干された民家が眼に入り、生活の臭いが漂ってくるかと思うと、線路の向うへ視線を落とせば、バラ、アジサイ、カンナ等の花々が続いて、知らずと心和むようだ。
途中、下膨れ気味で狭幅の対向車両としばしば擦れ違い、青や黄、濃いピンク等、夫々多彩なカラーで眼を楽しませてくれる。ガッタンゴットン響く車輌に、我が身ものんびりとたゆとううちに、駅夫々の間隔が短いための頻繁な発着までもが、微笑ましく感じとれてくる。気がつくと一昔前の昭和に遡ったような、ほのぼのとした牧歌的風情に浸っている。
 大正の末、荷風は玉電に乗り三軒茶屋で下車、大山街道〈現在の世田谷通り〉を行き、世田谷村〈当時〉の散策を楽しんだ、と日記『断腸亭日乗』に記してある。
このあと世田谷線は1925年に開業、『つゆのあとさき』の頃は既に開通し、荷風はしばしばこれを利用、更に付近の散策を堪能したことだろう。

 松蔭神社前で降りる。しばらく歩くと、深緑の楠の樹木に囲まれ、ツツジで満開の神社に着く。弟子の維新の烈士たちと共に眠る、吉田松陰の墓前に参る。
 さて、ここからは荷風さんにしばしご案内いただくとしよう。

― 松蔭神社の鳥居前で道路がT字形に分かれている。分かれた路を一二町ほど行くと、茶畠を前にして勝国寺という扁額をかかげた朱塗の門が立っている。
路はその辺から阪になり、遥かに豪徳寺裏手の杉林と竹薮とを田と畠との彼方に見渡す眺望。世田谷の町なかでもまずこの辺が昔のままの郊外らしく思われる最も幽静な処であろう ―

荷風ガイドを頼りに、豪徳寺をめざす。右手に国士舘大学、左手は世田谷区役所。荷風が描いた幽静な田や畠は、これら近代的建物の施設に変貌している。
坂道を数百メートル歩くと、立派な朱色の門が眼に留まる。間違いなく勝国寺。室町時代の薬師如来像が安置された由緒ある寺らしい。だが、門はまだ新しい。
荷風の世界から、もう八十数年の歳月が経過しているのだ。
鬱蒼とした杉林に蔽われた豪徳寺に辿り着く。徳川の時代、世田谷を領した彦根藩主井伊家代々の菩提寺で、皮肉にも松蔭殺害を命じた大老井伊直弼の墓がある。
松の老木が続く参道、境内の中心を占める仏殿、歴代藩主の墓石が据えられた広大な墓所等、草創五百年を偲ばせる佇まいは、荷風の頃とも余り変っていないに違いない、そう思わず想起させられる。程近い勝光寺には参道に続く階段を登ると、右手には見事な竹林が残っている。

 一息ついたところで入梅の季節に因み、小説『つゆのあとさき』に寄り道したい。
ご存知荷風には、紅灯の巷に奔放に生きる女性が主人公の作品が数多い。舞台は主に浅草、銀座、新橋界隈が中心である。
この作品も昭和初期、銀座屈指のカフェで働く女性が主人公で、銀座、市谷の場面を軸に展開する。が、突如、当時「郊外」として成立しつつあった世田谷が舞台として登場する。<主人公の愛人である小説家>の妻が、世田谷に隠居する夫の父を訪ねる場面にである。

― 麦門冬(りゅうのひげ)に縁を取った門内の小径を中にして片側には梅、栗、柿、棗などの果樹が蒼然と生茂り、片側には孟宗竹が林をなしている間から、その筍が勢いよく伸びて真青な若竹になりかけ、古い竹の枝からは細い葉がひらひら絶間なく飛び散っている。栗の木には強い匂の花が咲き、柿の若葉は楓にも優って今が丁度新緑の最も軟かな色を示した時である。樹木の梢から漏れ落ちる日の光が厚い苔の上にキラキラと揺れ動くにつれて、静かな風の声は近いところに水の流れでもあるような響きを伝え、何やら知らぬ小禽の囀りは秋晴の旦に聞く鵙(もず)よりも一層勢が好い。―

モダンだが猥雑な銀座に比べ、何と対照的で静寂な郊外風景であろうか。稀代の名文家荷風の文章の息を感じとるうちに、情趣溢れる光景がさながら眼前に浮かぶようだ。
荷風を敬愛した谷崎潤一郎は、このあたりの描写について、
「いかにも風流味が溢れているが、こういう叙景はこの物語の筋の進行には左程必要のないもので、自然主義の作家ならば当然書かない部分である」-<『つゆのあとさき』を読む>より-と批評する。
私は東京の風物景色を幅広く写そうと努めた荷風が、世田谷線を乗り継いで執拗に観察を続けた「郊外」の風景を、「下町」「山の手」に加え重層的に描き、人と人とが向き合う場面に、物語の彩たる客観叙景として挿入したのだろう、そう解釈していた。
だが江藤淳によれば、背景はその様な<底の浅い>ものではないらしい。著書『荷風散策』で次のように叙している。
「荷風散人は、このような憂いを抱いた鶴子〈小説家の妻〉が訪れる老父煕〈鶴子の義父〉の隠宅の空間を、さりげなく栗の花の「強い匂」で充たしている。男の性を暗示するこの栗の花の「強い匂」こそ,静謐な世田谷の自然と、淫靡な銀座のカフェの空間とに通底する、効果的なモチーフといわなければならない。 
作者は単に季節をとらえ、その光のなかに息づく自然を描いているだけではない。さらにその自然のなかから、閨怨に悩む鶴子の心理と生理に訴える栗の花の匂いを取り出し、二つの対照的な空間を巧妙に連関させているのである」
いささか穿った解釈と思えなくもない。が、ここは素直に、「文学を深く味わうとはそういうことなのか」と受け止めてみる。
人物の行動を淡々と描く中で、風景描写も工夫を凝らす。樹木の放つ「強い匂」にも、人間の心理が感応するとの含意を織り込んで描写しようとする。繰り返し味読すると、そう読みとれる気がする。

 栗の花の放つ「強い匂」を確かめようと、幾度か松蔭神社、豪徳寺近辺を散策した帰路、電車のつり革につかまり沿線の景色を眺めるうちに、うる覚えながら荷風の文体が脳裏をよぎり、しばし舌頭に転がして声に出したくなる。すると、まだまだ理解が浅い自分でも、感じるがまま思うがままに読めばよいではないか、と囁く声が聞こえてくる。
かくしていつものように、散策記と読書記の間で逍遥を繰り返す。ああ...荷風の観察と描写にほんの少しでいいからあやかりたいなあ、との思いを深めながら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「聴き上手になろう」― でも難しいなあ...

 友人や先輩後輩たちと杯を傾け懇談する。最近益々、私には大きな楽しみとなっている。
自分の話を聴いて欲しいのか、皆が皆、雄弁に話を続けたがる。コミュニケーション能力重視が言われ始めた、私たち世代の時代の反映かも知れない。
仕事の第一線を引いた人が多く、過去の自慢話は避け、現在やっていることを中心に、お互い話題を提供し刺激し合うのが暗黙の了解事になっている。だが大半の人はいろいろ活発に取り組んでいることを、多少誇らしげに伝えたくてうずうずするのだろう、ともすれば他人の話を聴くよりも、我も我もと競い合って自分の話をしたがる勢いが強まる。
 「老人性饒舌症」というのがあるらしい。作家大岡昇平晩年の日記風随筆『成城だより』にでてくる。歳を重ねるにつれ、他人の話を聴かずに自分の話ばかりしたがる傾向を、著者なりに表現したものである。以下当該の文章を記す。

―『世界』〈雑誌〉のための埴谷雄高との対談。『死霊』〈埴谷の代表作〉の隅田川の自然描写につき、牧歌的効果をと言いはじめると、彼すぐ引き取って、こないだ行ったらすっかり変っていた、年取ると昔の所へ行ってみたくなる、など話を取って、ひとりしゃべり続け対話にならず。老人性饒舌症というべし。こっちもしゃべる番が来たら、相手に取られないために延々としゃべる。「対談」にあらず独演競争なり。―
この時大岡、埴谷共に七十三歳。話を聴き合うよりも、おしゃべりを取り合う風景が窺える。この時の埴谷は夫人を亡くし、一方的にしゃべりまくる傾向が強くなっていたようだ。

 「俺の話を取るな! 」
この本を読んで、かってある先輩が話始めた話題を、懇談参加中の一人がすぐ自分側に引き込んで滔々(とうとう)と弁じてしまい、たまりかねた先輩が大きな声で叱責したことを思い出す。お陰で<相手の話を取るな>との心得を、教えてもらったはずなのだが...
  
 最近、ある友人から、「傾聴ボランテイア」という活動に参加していることを聞く。
老人ホームを訪問、話相手の少ないお年寄りたちの話をじっくり聴いてあげるというボランテイア活動らしい。説明する当人は、活き活きと語り続けるお年寄りの実態を、如何にも楽しげに語ってくれた。だが、かように日頃から他人の話を聴く鍛錬を積んでいるような人でも、話はしたがる。老若男女、人は誰でも自分の話をじっくりと聴いて欲しいのである。
 家人には、「話が長い」「それ何度も以前に聴いたわよ」と、半ば呆れられつつ辛抱強く付き合ってもらってはいるが、指摘されるたびに話は短めに、そして聴き上手にならねばと、一応は心する。
自分の考えを相手に伝えるには、先ずは相手の言うことを根気よく聴かねばならない。
我々の大部分は経験的に知っているはずのことである。
さはされど、友人たちとの会話も、「今日はしゃべりすぎたなあ」と反省するより、「話足らなかった」と物足りない気になりがちである。ことほど左様に、しゃべりすぎを自戒するのはまれである。
「聴き上手になりきる」― 口で反復しつつ、何度心がけても実行するに難しいと、つい言い訳しかかる。
だが、ちょっと待てよ。と、今この原稿を書きながらふとペンを休める。すると、周りの人たちの迷惑そうな表情が、チラチラと頭をかすめる気がしてくる。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

大岡昇平『俘虜記』を読む

 高校生時代のこと、洒落て垢抜けた英語の先生がいた。
ボキャブラリー豊かな英語を駆使される授業での、スマートで流暢な口調は聞いてて惚れ惚れするほどだった。
そんなハイカラな先生がある時何のきっかけだったか、突然自身の戦争体験を語りはじめた。どこの戦線かは聞き損じたが、密林の中を単独で彷徨するうちに、バッタリと一人のアメリカ兵と遭遇してしまったらしい。
「ヘイ! ハロー」
米兵はまるで旧友に出会ったかのごとく、親しげに笑顔でしゃべりかけてきた。
突然の予期せぬことに驚愕した先生は、一瞬たじろぐ。
だが、意を決して持っていた銃を彼に向け発砲した。米兵はバッタリとその場に倒れた。恐らく即死に近かっただろうと。
 もし仮に、英語の堪能な先生が敵方の親しげな態度に同調し、やあやあと打ち解けた雰囲気になったとする。その後の二人は夫々どんな行動をとったであろうか。
ニッコリと笑顔を交わし、そのまま無言でその場を立ち去っただろうか。
それともお互い道に迷った者同士、地理や方向等の情報交換でもしたであろうか。
で、離れた後はどうしたか。片方のどちらかが振返って発砲したであろうか。
これらはみな勝手な想定だが、先生が強調されたのは、突然出会った敵方で当然見ず知らずの相手に、敵意を示さず無用心に歩み寄ってきた米兵の態度についてである。日本人には理解しがたい、アメリカ人特有の性質かもしれないと言われた。恐らくその米兵は日本人も同じ人間だ、自分と同じ発想だと考えたのだろう。
だがお互い敵同士、しかも一対一で向き合った時、この時の米兵の咄嗟の判断が、自らの死を招いてしまう。
先生は国民性の違いと説明され、自らの体験を努めて客観的に、我々に対して語ろうとされたように思う。戦後も二十年ほど経った頃の話、生徒は大半が戦後生まれである。
 大岡昇平の『俘虜記』、その冒頭「捉まるまで」は、主人公が単独で一人の米兵と遭遇し、結局は発砲しなかった場面が描かれている。
この時の主人公の、撃つか撃たないか個人の極限状況まで追い詰める心理描写は、発表以来多くの読者の反響を呼び、誠実な自己省察の記録の白眉と評価された。
最近この本を再読し、この場面を繰り返し読みながら、四十数年ぶりに冒頭の先生の話を思い起こし、先ほどの勝手な想定を試みた次第だ。

 そこで『俘虜記』の当該の場面を少し長くなるが、抜粋して整理しながら記述することにしたい。なお語り手が主人公で、作者でもある。ここでは仮にAとしておく。

1)先ずAが米兵を至近距離で発見する場面である。この時まだ米兵は相手に気付いてはいない
― 谷の向うの高みで一つの声がした。(中略)声はそれきりしなかった。ただ叢を分けて歩く音だけが、がさがさと鳴った。私はうながされるように前を見た。そこには果たして一人の米兵が現れていた。私は撃つ気がしなかった。それは二十歳くらいの丈の高い若い米兵で、深い鉄兜の下で頬が赤かった。彼は銃を斜めに前方に支え、全身で立って、大股にゆっくりと、登山者の足取りで近づいて来た。私はその不要慎に呆れてしまった。彼はその前方に一人の日本兵の潜む可能性につき、些かの懸念も持たないように見えた。(中略)私は異様な息苦しさを覚えた。私も兵士である。いかに力を消耗しているとはいえ、私は先に発見し、全身を露出した敵を逸することはない。私の右手は自然に動いて銃の安全装置を外していた。兵士は最初我々を隔てた距離の半分を越した。その時不意に右手山上の陣地で機銃の音が起こった。彼は振り向いた。銃声はなお続いた。彼は立ち止まり、暫くその音をはかるようにしていたが、やがてゆるやかに向きをかえてその方向へ歩き出した。そしてづんづん歩いて、忽ち私の視野から消えてしまった。私は溜息し苦笑して「さて俺はこれでどっかのアメリカの母親に感謝されてもいいわけだ」と呟いた。

 作者は後年、著書『戦争』で、この時の米兵との距離を10~20間(18~36M)と推測している。

(2)ではなぜAは発砲しなかったのだろうか。背景は次のように記述されている。
― 確かなのは私が米兵が私の前に現れた場合を考え、撃つまいと思ったことである。私が今ここで一人の米兵を撃つか撃たないかは、僚友の運命にも何の改変も加えはしない。ただ私に撃たれた米兵の運命を変えるだけである。私は生涯の最後の時を人間の血で汚したくないと思った。米兵が現れる。我々は互いに銃を擬して立つ。彼は遂に私がいつまでも撃たないのに痺れを切らせて撃つ。私は倒れる。彼はこの不思議な日本人の傍らに駆け寄る。(中略)この時私に「殺されるよりは殺す」ということを放棄させたのが、私が既に自分の生命の存続に希望を持っていなかったという事実にあるのは確かである。

 当時Aはマラリア疾患で、衰弱のあまり死を覚悟せざるをえない状況にあった。

(3)さらにA側が二人以上だったとしたらどうであったか。
― それは私がこのとき独りだったからである。戦争とは集団をもってする暴力行為であり、各人の行為は集団の意識によって制約乃至鼓舞される。もしこの時僚友が一人でも隣にいたら、私は私自身の生命の如何に拘らず、猶予なく撃っていただろう。

 ここには戦争はあくまで集団同士で争うものだとの暗黙の前提がある。

(4)次に米兵がAに近づき、彼がAを認め、Aもそれを認めた時にはどうなるか。
これこそ冒頭の先生のケースに該当する
。作品における記述は以下である。
― 彼があくまで私に向かって前進を続け、二間三間の前に迫って、遂に彼が私を認めたことを私が認めた時、私がなお撃たずにいられたろうか。私は自然に銃の安全装置をはずした手の運動を思い出す。してみればこの時の私が確実に私の決意を実現しえたのは、ひたすら他方で銃声が起り、米兵が歩み去ったという一事に懸かっている。これは一つの偶然にすぎない。私の決意に照らして見れば、この時の私の行為は完成されていない。(中略)私は一応私の決意が何処まで私の行為を導きえたかを探してみたい。米兵は私の前で約五間歩いた。恐らく一分を超えない時間である。(中略)この間私はずっとこの米兵を見ていたのであり、その間私の想念は彼の映像によって規制されていた。(中略)彼の顔の上部は深い鉄兜の下に暗かった。私は直ちに彼が非常に若いのを認めたが、今思い出す彼の相貌は、その眼のあたりに一種の厳しさを持っている。谷の向うの兵士が叫び、彼が答えた。彼は顔を左斜め、声の方向に向けた。私が彼の頬の薔薇色をはっきりと見たのはこの時である。(中略)私の抑制が単なる逡巡に過ぎなかったのではないかと私は疑っている。しかし彼が谷に向うの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見た時、私に心で動いたものがあった。それはまず彼の顔の持つ一種の美に対する感嘆であった。(中略)そしてそれは私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、敵前にある兵士の衝動を中断したようである。(中略)しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によって彼を愛着したために、撃ちたくないと感じたことはこれを信じる。(中略)偏在的な父親の感情が私に撃つことを禁じたという仮定は、その時実際それを感じた記憶が少しもないにも拘らず、それが私の映像の記憶に残るある色合と、その後私を訪れた一つの観念を説明するという理由で、これを信ぜざるを得ないのである。これが我々が心理を見詰めて見出しえるすべてである。

 さあ読者はこの文章をどう理解するか。
作者は米兵の若さと表情に感嘆するあまり積極的に撃とうとしなかったのか。米兵の姿が視野に入り、やがて顔と表情を確認する。撃ちたくない、撃てない、撃たないと自分の心理を追い込んでいく。人間性が引金を引かせなかったとまでは言い切っていない。しかし殺すか殺さないかはっきりとは書かれていない。
後日作者は、「実際には私が国家によって強制された「敵」を撃つことを「放棄」したという一瞬の事実しかなかった」と述べている。(『ミンドロ島ふたたび』より)

 さて、そもそも戦争は個人に何を要求するのであろうか。
<国家の名において人を殺すか殺さないか。自分が殺すか殺されるか>
問題は<敵見方>と<人間同士>の間に拘る。敵味方=集団同士、人間同士=一対一と置き換えて観察してもよい。
作者はそれを、<銃を撃つか撃たないか>という一瞬の決断に凝縮して描いている。
その迫真的な戦場のリアリズムに極めて説得性があり、作品に優れた価値を生んでいる。
特に<共同=集団>ではなく、あくまで<個>の側で戦争を捉えようとし、「一兵卒のたたかいの迫力」〈小田実〉に迫る。戦争を描いて比類なき作品と評価されるのは、まさにそこにある。
<悪いのは軍部であり、一人ひとりの個人に責任はない>ということを否定し、<撃つか撃たないかの決断を瞬時に迫られ、個人は無垢ではない>ことまでを抉り出して描く。
 
 私はこの本の読後感として、先生の体験談と比較しながら取りとめもなく愚考する。
<先生は米兵を撃った>のは事実である。先生は戦争は国家の強制により敵を殺すものと判断し、戦後しばらくして殺人を告白した。
一方、作者は<人間は相手を撃たないのだ>という小説『俘虜記』を書いた。
しかし一対一で眼と眼が合い、なおかつ二人とも撃たないということはありえるか。
またそれを小説として描けるであろうか。
「撃つな」と伝える声が崇高な人間の内部に芽生え、「避け得るなら殺さない」という一瞬の判断を生みはしないか。お互い一介の無力な市民ではないかと...
<個>の側で戦争を捉えることは、突き詰めればどうしてもそこまで辿り着くような気がしてくる。
双方とも撃たない、上記(4)の箇所を繰り返し再読しながら、双方とも「殺されるより殺す」という考えを放棄する、そのような場面に書きあげられないだろうか。
そんな感慨にどうしても捉われるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

街ですれ違った著名人―その2(政治家たち)

 先ずは大平正芳元首相。和歌山市の大きな観光旅館で。
その日私は、勤め先の会社が主催するイベントで、大勢の顧客を案内中だった。それと大平氏を歓迎する地元有志のパーテイーとがかち合った。
混雑整理で入り口に待機していたところ、すぐ目の前をゆっさゆっさと大平氏の太った身体が通る。地元の支援者らしき一人と、あふれる笑顔で抱擁せんばかりに抱きつきながら会話していた。福田赳夫氏と争った、自民党総裁予備選の真っ最中のこと。
 続いて石橋社会党元委員長。長崎空港の公衆電話コーナーで。出張帰りで赤電話にコインを入れ、会社の上司に報告していたときのこと。
電話を終えた私の隣で、電話中なのは石橋氏。「委員長が危なかった」と、ぼそぼそと小さな声で話している。当時石橋氏は社会党書記長、選挙区は長崎。委員長は飛鳥田氏。
選挙が終ったばかりで、飛鳥田氏は大苦戦、ギリギリ当選だった。テレフォンカードも携帯電話もない頃の話。
 十年余り前、新幹線は長岡駅のコンコースで。聞き覚えのある大きな野太いダミ声がする。振返ると田中真紀子女史。地元秘書らしき中年の男性と話中、と言っても一方的に喋りまくるのは真紀子女史。高いハイヒールを履き身体を揺らしながら歩いている。
数メートルその後を行く、背が高く大きな眼をした男性は夫の田中議員。無言で一人もの静かに歩いている。その落ち着き払った態度からは、「こんなのはいつものことだよ」、そう語っているようにも読み取れた。
 何と言っても極め付きは? 小泉信三元慶応義塾塾長の葬儀で青山斎場にて。
四十年以上も昔のこと。小泉氏がクリスチャンだったため、当時大学の合唱団に所属していた私は、コーラスで尼さんたちと一緒に賛美歌を歌った。
ザワザワと大物が登場する気配の中で、やがて着席したのが吉田茂元首相
ステッキをつき、和服で白足袋をはいている。大勢のカメラマンが無遠慮にズカズカと目の前に接近し、バチバチと大きなフラッシュの音をたてて何枚も撮影する。
当の吉田氏、ちっとも気にせずに悠然とかまえて瞑想するように眼をつむる。小柄なのになぜだか大きく見えた。
 そうそう麻生現首相とも会った。十年前に福岡のホテルの会場で。
当時、代議士だが大臣ではなかった。すれ違ったわけではなくこちらもきちんと挨拶し、少しばかり話もさせて頂いた。快活な笑顔で歯切れよい口ぶりはそつがなく、社交性十分な印象だったがなあ...。

<付記>前号「上野毛を散策しながら」について一部訂正あり。世田谷区古地図によると、かっては上野毛と下野毛があり、下野毛が現在の野毛である。因みに多摩川を挟んだ対岸の川崎市に、現在下野毛がある。お詫びして訂正したい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

上野毛を散策しながら

 毎朝散歩がてら、しばしば上野毛方面を散策する。自宅から歩いて五~十分の距離、環状八号線を囲んだ界隈である。
地名からすれば野毛や下野毛もあるだろうと思わせるが、野毛はあるが下野毛はない。
これは古来「ノゲ」が「崖」を意味する言葉で、この地域が多摩川の形成した河岸段丘である国分寺崖線にあたり、その崖上のために上野毛と称されたとの由来による。
従って全体に、上野毛は見晴らしの良い高台に位置している。
東急電鉄と共に発展した閑静な住宅街で、五島一族のいくつかの屋敷が多摩川流域のひときわ眺望のよい場所を占めている。グループの創始者である五島慶太の旧邸宅跡は現在五島美術館となっており、亭々とそびえる年輪を重ねた松や逞しく根を張ったケヤキの老樹等に囲まれ、緑陰の風音と共に、美術館らしき落ち着いた佇まいを呈している。
加えて崖線斜面に広がる、自然を生かした庭園のツツジや楓等に囲まれた階段の下には、数多い野仏、地蔵、石灯籠等が配され、四季折々の風韻(ふういん)を楽しめる。
段丘のお陰で晴れた日の付近からは富士山の遠景が望め、最寄の大井町線上野毛駅からも程近く、訪れたことのない方にはお奨めできる格好の探訪コースだと言えよう。

 実は昨年、亡くなられた敬愛する加藤周一氏が、生前この付近に住まわれていたことを知った。たしかに「上野毛便り」という随筆集が、著作集の中に収められている。
加藤邸はどのあたりだろう、許される好奇心の範囲ではと勝手に思い込み、散歩がてら遺された邸宅を探している。
著作集に、同氏が庭で幼女とくつろぐ様子や、上野毛通りを多摩川方向に下る坂道を背景にした写真の掲載があり、それらを参考にして探索、幸い見つかれば近くで黙祷を奉げたいと念じている。
つい最近も、加藤の表札の家が五軒ほど見つかった。が、すべて名字のみで、うち二件は二世帯同居、夫人の矢島姓(夫婦別姓のはず)の表示はない。
庭のイメージも合わず、しかも加藤姓は多い。多分同氏の家ではなかろうと推測され、残念ながら黙祷は控えている。

 散策すると、ブログの題材発掘にヒントが得られたり、読んだ本の風景が頭に浮かぶことがある。つい最近も歩くうちに国分寺崖線、別名「ハケ」の北方面は、地理への執着が強く武蔵野の地形・地層を克明に描いた作家大岡昇平の『武蔵野夫人』の舞台だったなあと思い及んだ。
 新緑映えるこの季節は、ケヤキやトチノキ等の落葉樹も緑葉をつけ、ツツジやモクレンが馥郁たる香りを漂わせて花咲き、キチンキチンと鳴く野鳥のキセキレイやウグイスのさえずりも上達して活発になる。こうして花や樹木や鳥の声を丁寧に観察し、その味わいを深めようとそれぞれの名称を覚えるために、絵や写真入りの本を時おり紐解く。
やがてこんなことでも、もっと面白く楽しく感じられていくに違いない。そう思って歩き、観察を重ねる。
 落葉松の小径を歩くと郭公の鳴く声が聞こえ、その声と共に初夏は始まる。そう語りながら浅間山麓追分の夏の高原をこよなく愛された加藤氏だが、東京では折にふれて、木々の緑に蔽われ季節毎に色とりどりの花が咲く、眺望のきく上野毛の散策を楽しまれたことであろう。鋭敏な頭脳を時には労わり、時には刺激されたのではと想像する。
すると、あの鋭い眼光の加藤氏が路地の奥からひょっこりと顔を出され、眼と眼が合えば鋭い顔が一瞬緩み、悪戯っ子のようにニッコリと微笑み返してくれるのではなかろうか。
そんな気がして日々散策を続けている。
 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

小説『女ざかり』を読む

 面白い小説を読んだ。丸谷才一の『女ざかり』。吉永小百合主演で映画にもなったベストセラー。なぜ今頃? 理由は次の通りである。
最近図書館で借りた大江健三郎の『小説の経験』、その中にこの本の紹介があった。
待てよ? 見覚えがあるな、とすぐに本棚を確認する。本は一番高い天井際で眠っていた。買ったのは15年も昔。400ページで分厚い。通勤の途上でも読めず、積読されてしまっていた。
 美しい女性の主人公は大新聞の論説委員。彼女の書いた妊娠中絶に関する社説がもとで、思いもかけず時の権力の介入を招くことになる。題名どおり女ざかりの主人公が、その圧力の正体をつきとめ敢然と立ち向かう展開は、さながらサスペンス小説だ。
新聞記者、若手役人、大学助教授、元女優、政治家等々、次々と個性的な脇役が登場、彼らが演じる個々の場面での表情や会話が、躍動的で物語をダイナミックに彩る。
先ず書き出しの場面。時同じく論説委員に抜擢された事件記者出身の男性、これが何と文章が苦手。彼の社説の原稿を文章の得意な主人公が手伝って修正する。修正前修正後の文章が具体的にでてきて、ぐいぐい引き込ませる。周りの論説委員、副委員長のチェックを経て、個性的な味わいのある文章が次第に無難な論調に変ってしまう。
へえー、新聞の社説はこんな具合に書かれるのかー...
服装や食事のメニュー、当意即妙な会話の数々、登場人物の心理、時には括弧つきで補われ、次々と繰り出される細部の描写は、細緻を極める。
クライマックスは首相公邸での場面。主人公が首相と直に向き合い面談するシーンだ。
読んでいて一体この魅力はなんだろうかと思う。リアリテイー? それでは月並み過ぎる。
この小説の最大の面白さ? それは新聞記者という、人の話を聞き、それを文章に書く職業の人間が主人公であるからだろう。
多彩な話法や語法のあや、内心の意識の流れの交錯、それらが言葉の実際的な機微によって自在に操られている。作者独特の技法に、知らずと読む者は夢中にさせられている。
物語の底辺に「贈答」という日本独自の風土。まるでオーケストラの低音部を支えるチェロのような役割を果たす。
「文学の歴史と最前衛とを熟知した小説観の持ち主が、豊かな技術で実現した作品」
(大江健三郎)との評価も宜(むべ)なるかな。最前衛とは作者の傾倒したJ.ジョイスの『ユリシーズ』のことだろう。そしてラストの場面は...
これから読まれる方もいると思うので、これ以上立ち入った内容の紹介は省く。
最後は日本の独特の文化としての「贈答」で締め括られ、書き終わりには余韻が残される。
 斬新な批評で知られる評論家加藤典洋は言う。不倫三大小説、大岡昇平の『武蔵野夫人』、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』、それと『女ざかり』。その中で『女ざかり』が一番底が浅いと。
でもこの説には賛同できない。なぜなら圧倒的に面白いからである。この面白さこそ、底深いまでの味わいでなくて何であろう。
「ポストモダンの難解小説や新人のお稽古ごと文学から置いてけぼりにされたと感じている読者」(筒井康隆)、その典型の如き私が、小説に期待していた本来の面白さが復活したぞ!  そう感じて心底から堪能ができた。
 蛇足だが、我が本棚には半ば不良在庫化している本が多いのを改めて認識した。
いま『裏声で歌え君が代』を読んでいる。六ヶ月前には『忠臣蔵とは何か』を読んだ。それとこの度の『女ざかり』。丸谷才一作品の在庫一掃。
ところで次は何を読むか。本棚にお宝発見といくか! 

<追記>書いている途中で、丸谷作品の『たったひとりの反乱』『笹まくら』と立て続けに読んだ。作品の発表された逆の順番に読んだことになる。ひとつの作品をきっかけに、その作者の大半の作品を集中して網羅的に読むのも、理解が深まる気がして面白い。
いつかまた、今度は発表された順番に再読してみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (4)

ふたりの師匠

 ものを書くとき、相談する相手がふたりいる。そのひとりは娘である。
つい最近も文章を見てもらった。
「ぜんぜんダメね。オリジナリテイーがないわ」
可愛げないほど厳しい。
「オリジナリテイーって、アカデミー賞をもらった『おくりびと』のテーマのようなものか? 」
「そうそう、よくおわかりじゃないの。それにお父さんの文章、独りよがりでくどいわ。
もっと、客観性がなくちゃあー」
「えっ、客観性? 」
問い返す間もなく、自信たっぷりに私の文章を赤ペンで横線を引きバサバサ削る。
推敲したあげくの作品が、まるで栄養失調のようになってしまう。
『文章は削りに削って危うく分からなくなる寸前でとどまるをよしとする』
かって耽読した山本夏彦大先生のモットー。でも入魂の文章を削られると未練が残る。

 もうひとりは、学生時代からの友人。元大新聞の論説委員。手厳しいのは覚悟の上で、たまに見てもらう。懇切丁寧に指導してくれる。
改めて指摘されると、なるほどなと気がつくことばかり。だが己の下手さ加減を再認識、才能に不安がつのりはじめる。
でもさすがプロ、指摘される中味の奥が深い。
音楽に関する文章で教えを請うたときなど、
「音楽を書くのが一番難しい。聴いている肝心の音は、瞬時に消えてしまう。本や絵画が対象物が持続して眼の前にあるのとは大違い。心に残ったインプレッションを、忘れないで文章化するのは至難の技だよ」
説得力ある言葉に、感心し納得。このアドバイスを元に、感動を自己陶酔にならずに伝えようと、再び頭を掻き掻き試行錯誤を繰り返す。

 教えてもらうには虚心坦懐、素直にのぞむことだ、と心得てはいるものの、これが実に難しい。心の奥で飼っていた自尊心の虫が、騒ぎ立ててくれる。
娘とやりとりのときなど、
「だったら、相談などしなければいいのよ! 」
まさに一触即発寸前になりがち。
「ぐっ! 」と堪えて、やおら修正前、修正後の原稿をチェックしてみる。
「ああやっぱし、ご指導の効果はあるわなあー 」
つとめて自省、心広くして指導を請わねばと気持を鎮める。かくして人生修養が続く。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«歌舞伎雑談 ― 「勧進帳」